「研究者が戦争に協力する時―731部隊の生体実験をめぐって」常石敬一

  731部隊は日本軍の生物兵器部隊で、1936年から45年まで中国ハルビン近郊で活動を続けた。その部隊は論文発表などで、実験対象がヒトだったにもかかわらずサルと偽らざるをえない人体実験を何年も、組織的に行ったことで有名だ。また何年かにわたり部隊が開発した生物兵器を戦場および都市で試用しデータ収集を行った。これらの人体実験や生物兵器の試用は軍人だけではなく、各大学から民間人として集められ、その部隊に勤務した研究者も多数関わっていた。彼らの多くは指導教員の意向で部隊に派遣された。弟子を部隊に送り込んだ指導教員は、部隊の上部機関である陸軍軍医学校防疫研究室の嘱託で、室長および部隊長である石井四郎軍医中将の活動を支援した。弟子の供給もその支援の一環だった。

 

 部隊は生物兵器の研究開発の組織で、いわゆる医学研究を行い、隊員たちの何人かはその研究で学位論文をまとめ、博士号を取得した。その研究および論文作成を嘱託が指導することも少なくなかった。さらに嘱託が在籍する大学に学位申請をおこない、その嘱託が審査にあたり、博士号が認められている例がいつくもある。それで問題がない例も多いが、三分の一ほどに認めてはいけない論文に学位を認めたのではないか、という疑問があるが、放置されて来た。

 

 部隊による人体実験は研究者が直接ヒトに病原体を接種するような実験だけではなく、生物兵器の効果を調べるためのデータ集め目的の試用も規模の大きな人体実験だ。

 

 部隊員の学位論文の申請年月日が、1945815日の敗戦の日の前か後かによって何か変化はないかを見てみた。すると、敗戦以前に申請された論文ではヒトをサルと偽ったことが明白なもの、また生物兵器の試用結果をそのまま記述したもの、つまり人体実験の事実をほぼそのまま書いたものがある。

 

 それに対して敗戦後に申請された論文にそうした傍若無人なものはない。しかし、自分の軍歴を隠したものあるいは偽ったものがある。また軍のプロジェクトとして集められたデータを使いながらそれを隠蔽することで、データの出所・出典が不明となっているものがある。さらに実験場所や設備について、軍の施設であることが明記されておらず、具体的な情報が記されていないものがある。こうした論文を審査したのは戦時中防疫研究室の属託を務めた指導教員たちで、先の問題点を無視して学位を認めている。これは言ってみれば戦後も続く「腐れ縁」だ。

 

 敗戦前に申請し学位を得た論文、敗戦後に申請し学位を得た論文、それらの問題は、それらが科学の論文として成立していないことだ。科学論文として成り立っているかどうかの要点のひとつは、論文の記述通りにやってみる道が開かれているかどうかだ。追試ができるということだ。やってみて同じ結果が得られれば、その論文は次の研究の土台となる。同じ結論が得られない場合は論文の正当性・真偽を見極める必要がある。ところが先に記した問題のある学位論文では、人体実験や生物兵器の試用に基づいており、追試は不可能だ。その意味で論文として成立していない。

 

 追試ができるどうかが重要なのは、科学の発展は従来の研究という土台の上に築かれているからだ。それを17世紀の物理学者ニュートンは「巨人の肩の上に立つ」という12世紀の哲学者の言葉を引用して表現している。科学者は誰もがその利用によって得た研究結果を発表することで、土台をより豊かに強固にするという貢献をしている。追試ができない論文はその土台作りに貢献することはできず、科学的に意味がない。そうした研究は自己満足のための、趣味でしかない。

 

 軍事機密のベールで覆われた研究も、人類共通の科学の土台の上に築かれている。それでいながら、それで得られた研究結果を秘密にすることは、土台を利用するだけ利用して、科学の土台への貢献を意図的に怠ることになる。また、一見画期的な研究結果のみを示し、元となる実験対象ヒトをサルと虚偽記載すること、利用したデータの収集方法を明らかにしないことによって、追試を試みる研究者を惑わし、余分なエネルギーを浪費させることになる。

 

 研究結果がワクチンや薬などの場合は、「有効」ということで世に広まっていくことがある。それを経験した元731部隊員の医学者はこう記している。「技術がいったん『治療』とか『予防』とかといった名目で使われはじめれば、あとはどんな方向へでも独り歩きするものであることを、わたしはいやというほどみせつけられてきた」(『医の倫理を問う』勁草書房1983年)。その開発過程に違法な人体実験など公表できないブラックボックスがある場合、ワクチンや薬など最終的な製品による事故があっても、その原因究明が困難となるだろう。さらに改良・改善についても小手先のものに終始することになるだろう。

 

 秘密の方法で成し遂げた画期的な成果を、同じ研究者が仲間内の目を欺く必要のないまっとうな方法でやり直して達成する、という例もある。これは本来の科学的な手法をとれば、時間や労力はかかるかもしれないが、その成果の達成は可能だったということだ。まっとうな経過を経ていれば、達成の過程の長所や短所その他を誰もが共有できる。成功の可能性が低い方法も含めて論文として公表し、科学の共通の土台とすることが、科学をする者の責任だ。

 

 科学の歩みを世紀単位で省みると論理的に整理することは可能だ、しかし四半世紀くらいの単位で見てみるとそう論理的に進んだわけでなく、紆余曲折・試行錯誤をして成果をもたらしていることが分かる。それゆえに科学史という研究領域が存在している。そうした科学の歩みからすれば、不正な方法による画期的な成果とブラックボックスの存在は、土台への貢献の意識的忌避にとどまらず、科学の土台を蝕み、科学活動の劣化をもたらすという悪意ある攻撃となる。

 

 科学研究が軍事目的に動員され、秘密研究、あるいは仲間の目を避けなければならない研究を行うことは、土台の一方的利用であり、さらに時にその土台を蝕み、いずれは科学界の志気を削ぐ危険がある。1939年の総動員試験研究令で民間の研究者が国家目的の研究に動員された。その4年後、研究者を指名し、国から直接支援を受け、他方で研究結果を報告する義務を負った戦時研究員制度が始まった。これは39年の研究令が機能しなかったための新たな制度と考えらえるが、これは秘密研究がもたらす研究体制の空洞化の帰結、あるいはその始まりと見るべきだろう。(2018年2月24日)